2014-09-01 ― State of Decayと日記

『ウォーキング・デッド』を観ていたらゾンビサバイバル熱が高まり (但し仮想世界に限る) 『State of Decay』のDLC『BREAKDOWN』をやる。
『BREAKDOWN』は本編の様なストーリーはなく、移動用バンの部品を探し修理し次のレベルへ移動、を繰り返すモード。
その他の特徴としては、レベルがあがるごとにゾンビが強化される事と、レベルごとに実績要素があり、実績解除で能力の高いヒーローキャラクターがアンロックされる事。

拠点構築と仲間と資源集め、プレイアブルキャラの強化を延々繰り返すモードなので、飽きる人はすぐ飽きる。
俺は元々作業ゲーの没入プレイが好きなのと、まさにウォーキング・デッドのアクションシーン!な感じのシチュエーションに脳内ストーリーが流れだし、ついつい遊んじゃう。
以前も書いたけれど、続々追加されるタスクを、合間合間で資源回収もしつつ効率良くこなしていくのがとても楽しい。
キャラクターのモーションや操作感も、動作の重みを感じさせつつも軽快さを保っていて、操作していて気持ち良いのも長時間プレイの一因。
対ゾンビ戦はギリギリ無双し辛いバランスで、調子に乗ってると思わぬところでキャラロストがあるのも適度な緊張感が保てて良い。

値段以上に遊べるゲームなんだけれど、1点難点があって、元々XBOX用のゲームとして開発されていた事もあり、マウス関係の挙動がちょっと微妙。
具体的には、変なマウスアクセラレーションが入っていて、感度調整でカバーし切れないんだよね。
慣れの部分もあるんだけれど、これは切れるなら切ってしまいたい設定。

話は変わって。
朝、寝起きの一服をしつつTwitterを眺めていたら、こんなポストがあって、

森奈津子@「桃色巡礼者ミソノ」連載中さんはTwitterを使っています: “昨日、わざわざ私に「マジキチ」とリプくれた匿名の方がいらしたのですが……わかってないなー、と思いました。作家はみんな、マジキチと言われたい人か、実際にマジキチなんですよ! 作家が一番言われたくない言葉は「おまえは平凡だ」ですよ! 作家に対する罵倒が、なっとらん!”

学生の時に「ここは変人と言われたがってるのが透けて見える “普通の人” ばっかりだなぁ」と思ったことを思い出したりした。

学生時代、何かを作る上で、普通ではない事、は大きなアドバンテージになるんだろうなぁ、とよく思っていた。
斬新な切り口だったり、面白い視点だったり、”普通じゃない” から出てくる ”個性” みたいなものは、やっぱり強い。
まぁでもこの ”普通じゃない ≒ 非凡である” かどうかは、先天的なものだよなぁ、とも思っていた。
そこで悩む訳だ、「平々凡々な自分はどうしよう」と。

いろいろ考えた結果、結局のところ ”普通は普通で良い” という結論に落ち着いた。
普通であっても、 “普通の視点・切り口” で某かを作る事は当然出来る。
そして、それをどんどん掘り下げていけば、どこかしらで ”個性” は出てくるものだよな、という気がしたのだ。

例えばノーマン・ロックウェルの絵は、無個性と言われがちな写実的なタッチで、(当時の) 誰もが目にする様な日常的な場面が描かれている。
特別斬新さや、目新しさを感じさせるものではない。
けれど、彼の絵は非常に魅力的。
何故かと言えば、その日常的な場面を掘り下げていく事で、テーマやストーリー等の背景を感じさせるからだと思っている。

例えば、男の子が兎に話しかけている様な構図の絵がある。
そこで描かれている男の子は裸足で、被っている麦わら帽子も履いているズボンもボロボロ。
でも、分厚い本を大事そうに小脇に抱えている。
背景は丸く切り抜かれた青空で、画面全体も爽やかな日差しを感じさせる明るいものだ。
貧困の中にあっても輝く、子供らしい無邪気さや夢や希望や向上心や、そういったものを無意識の内に感じさせられる。
ノーマン・ロックウェルの絵はこんな風に、その1枚の絵の背景を、描いたものや描き方で上手に包み込んでいるんだよね。
そして、それがノーマン・ロックウェルの魅力であり個性であり。
これって、日常的な場面の、何をどう描くか、じっくり掘り下げた結果なんだと思う。

まぁ掘り下げる、って事以外にも、表現を支える技術力だったりと底時になるものは必要だけれど。
でも、技術は努力によって身に付ける事が出来るし、掘り下げるのもおんなじ。
まぁ勿論 ”普通じゃない” 視点や発想を持った人も、作り出す上で努力はしているんだけれど。
”普通である” から良いものが作れないという事はない、某か作る上で ”普通じゃなくなる” 事を望んだり、演じたりする必要はない、というお話。

だから当時の自分は、普通は普通で良いんだ、という結論を出し、そして今もこの考えはさほど変わってはいない。

変わった、というか、つい最近まで忘れていた事はあって、それは ”実際に努力出来る人は少ない” という事。
正確には ”実際に某かを作れる人は少ない” という事か。

Twitterやその他SNSが普及して、某か作ってる人達をフォローする様になったんだけれど、そうすると自分の観測範囲には「当たり前の様に某か作っている人」達ばかりになるよね。
勿論クオリティに違いはあるけれど、でも ”某かを作る” という事は日常的な事で、特別な何かがなくても作っている人達に囲まれている状態になっているんだよね。
もっと身近なところでは、嫁も「某かを作る人」で、自発的にいろいろと面白そうな事をやっていたりするし。

特に何かを言わずとも、日常生活の一環として「何かを作る」人達が一般的な環境にいたから、 ”作るという事を明言” されたら当然作るんだろうなぁ、楽しみだなぁ、と思ってしまう。
でも、むしろ ”言っているだけ” で実際に何もしない人の方が世の中には圧倒的に多いんだよね。

夏休み、って季節的なものもあり最近多かった例として、SNSのプロフィール欄に「~を作りたいです」「~したいなぁ」と書いてある人にフォローされる。
どんなものを作ってるんだろう!と思ってその人のポストをざっと眺めたり、(絵の人だったら) 貼り付けてあるPixivのURLを覗いてみたり。
すると、特に何か作っている様子はない。
ただ、「~作りたいなぁ」「~したいなぁ」という話だけが、そこにある。
じっくり読んでみると、「やらない為の理由」が挙げられていたりもする。(例えば絵なら「ペンタブがあれば」とかさ)
それを何度も繰り返す内に、次第に小さな落胆と苛立ちを覚える様になった。

が、それが普通なんだよね。
何かをやり始めるにはそれなりにエネルギーが必要だし (自動車だってマニュアル車ならパワーのある1速からスタートだ)、そのエネルギーを捻出する為には努力が必要だ。
作っている人が身近にいる (前述の場合はSNSでフォローするっていうものすごいお手軽なものだけれど) と、それだけで満足してしまう事も良くある話だし。
そういや昔の職場の同僚にイラストレーターをやっている女の人がいたけれど、その人は同業の (彼女より仕事のある) イラストレーターと結婚した際、「彼が描くから私は別に描かなくても満足」みたいな事を言って、描くのを辞めてしまっていた。

何より、学生時代や、それ以前。
大体において、周囲には「~したい」という人達ばかりで、実際にそれをやっている人はほんの一握りだったじゃないね。
昔の事を思い出し、今の自分の観測範囲こそが一般的じゃないんだよね、という事、落胆や苛立ちの無意味さを認識。
やる人は当たり前の様にやるし、やらない人は必死に理由を見つけてやらないものなんだよね、思い出したよ。

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